リンドン・H・ラルーシュJr.
リンドン・H・ラルーシュ、Jr. 氏は70年代から今日に至るまで世界に名を馳せる政治家です。特にロナルド・レーガン前大統領による戦略防衛構想(SDI)の草案者としてその影響力を確実なものとし、政治経済学の第一人者として活躍しました。2019年に惜しまれつつ他界した後も、彼の思想および経済予報法(LaRouche Method)の正確性は世界中で研究されており、未だ絶えることなく波及し続けています
以下は彼の経歴の概略です。
経済学者:長期的経済予報の手法
ラルーシュ氏の国際的知名度を不動のものとしたのは、彼の経済予報とその適正です。この手法は1948年から1952年にかけて発明されましたが、その発端は、英国の数学者バートランド・ラッセルの信奉者ノバート・ヴィーナーとジョン・フォン・ノイマンによる「サイバーネティックス」や「インフォメーション・セオリー」等の“反物理的情報経済論”の徹底批判をするところに始まっています。この批判の根本概念となるのが、1671年-1716年間に創作された哲人ゴットフリード・ライプニッツの著作にみられる個人の“反直線的創造力”、すなわち数学的定説を覆す“発想の転換”を摂理とする人の思考能力なのです。
この見解から、社会の継続的発展を解析する手段としての「相対的に可能な人口密度」 (Potential Relative Population Density)を定義し、更に、その必要尺度として、ライプニッツ、数学者ガウス、そしてバーンハート・リーマンの物理学的原則の視点から、今日に至る経済予報の手法、いわゆる「ラルーシュ・リーマン方式」を創設するに至るのです。
特に名高い予報の一つに、1959年-1960年のものがあります。曰く、もしトルーマンとアイゼンハワー政権下の経済政策にまつわる概念に固執すれば、1960年代後半までに、フランクリン・ローズベルト前大統領によって設立されたブレットン・ウッズ体制の崩壊につながる経済危機に見舞われるだろう、というものです。これは1967年の英国貨幣ポンドの崩壊に始まり、1971年8月15-16日、ブレットン・ウッズ合意の終焉をもって立証されます。
周知となっているもう一つの予報は、1971年以降に起こりうる傾向とその本質です。曰く、もしこの強欲な金銭主義政策と過激なコスト削減政策を一変させなければ、結果は、経済周期的な経済危機ではなく、総体的な物理経済基盤の壊滅につながる世界恐慌に至るだろう、というものです。これは1987年 10月の米国相場崩壊を機に、経済、財政、政略その他全ての面で顕著となり、産業、農業その他の生産的経済要素は第三世界へ姿を消し、崩壊は今に至るまで加速を続けています。ラルーシュ氏の最近の見解によると、今度の経済危機は、1930年代の大恐慌とは異なり、さらに劣悪な、14世紀のヨーロッパが経験したヴェニス帝国を元凶とする「暗黒時代」(すなわち投機傾向の蔓延による文明の退廃と、ヨーロッパ人口を半減させることになる黒死病などの蔓延による物理経済の倒壊による絶望的社会状況)と原則的には違わないと語っています。
政界進出
彼が大戦時より常に育んでいる概念は、独立国家同士の平等な経済及び外交関係を築くことであり、第三世界と呼ばれる国々に完全独立権をあたえ、雇用や教育に必要な物資やテクノロジーを配給し、発展への扉を押し広げる手助けをすることであり、故に、大英帝国的思想は、フランクリン・ローズベルト大統領とウィンストン・チャーチル英首相間の“溝”にみられるように、相容れない概念なのです。
ラルーシュ氏は三十年にわたり、世界銀行及びIMF(世界通貨基金)のアフリカ政策を否定し続け、その起源を大英帝国の歴史的地政学的政策と位置づけ、アフリカ各国の首脳と共に改革を主導しています。1975年にはパリで記者会見を開き、IMF 及び世界銀行を再構成するための債務猶予期間(Debt Moratorium)を提案し、アフリカ横断鉄道などの大規模なインフラ基盤事業を賄っていくための新たな“国際発展銀行”の設立を促しています。インドのインディラ・ガンディ首相政権下、ラルーシュ氏の所要な提案は、スリランカのコロンボで催された第五回中立非同盟国会議にて採用されています。この国際会議は85国から成り、およそ20億の人口を代表していました。しかし、この歴史的瞬間は、ラルーシュ氏のオアシス・プラン、すなわちアラブ諸国とイスラエルとの原子力及び灌漑事業を互いの平和のために行う「発展による平和」の草案と共に、適応されつつありましたが、ヘンリー・キッセンジャーを筆頭とするウォール街及び英国財界のエリートたちによる間断ない攻撃と経済制裁等の外交手段により、妨げられることになります。
大統領候補
彼は1976年以来2004年まで、総計8回大統領選に出馬しており、1980年以降は民主党候補としてフランクリン・ローズベルトの民主党を復興すべく奮闘してきましたが、首尾一貫している原則は、崩壊の一途をたどる米国及び世界経済体制を一変させ、初心に戻るべく建国の意図を再確認し、“独立国としての経済基盤”を他国と共に再構築していくことでした。復興政策の主眼として、次のものが挙げられます:
a) 1950年代のブレットン・ウッズ体制の最も効率的な要素を再興する
b) 初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンが記す憲法に忠実な国立銀行を設立し、民営の中央銀行制度を改正する
c) 独立国家による新たな国交関係を築き、世界経済基盤を改める
d) 大規模インフラ基盤事業を優先し、個人の生産性を向上させるため、また科学とテクノロジーを発展させるための長期融資を可能にする
1976年-1984年の選挙での要点は、冷戦の最盛期、ソビエト連邦とアメリカ合衆国との科学の進展を趣旨とした共同事業を現実化させることでした。レーガン大統領は1983年3月23日、ラルーシュ氏が創案した戦略防衛構想(SDI)をテレビ中継で発表、ラルーシュ氏はソビエト連邦代表との非公開交渉を行い、この革命的事業を推し進めます。しかし、ソビエト連邦はこの提案を拒否、事業断念を余儀なくされます。この時点でラルーシュ氏は、独創的発想を許さないソビエト政権化の共産システムとその加速的崩壊の過程から、ソビエト連邦に唯一残された生存の道はSDI を受け入れることで、もしそれを拒否するならば、ソビエト連邦は5年も持たないだろう、と予報します。この1983年の予報は、6年後の1989年のベルリンの壁崩壊をもって、僅か1年の誤差と共に、証明されることになります。
1988年、ラルーシュ氏は、瓦解しつつあるソビエト共産体制を踏まえ、ベルリン・ケンピンスキー・ホテルにて記者会見を行い、共産システムの終焉を予報すると共に、ベルリンが崩壊後に統一されるドイツの首都になることを示唆し、ヨーロッパの新たな経済体制として、ベルリン、パリ、ウィーンを囲む「生産的トライアングル」を提案、ヨーロッパ諸国の独自の発展を促していく方向性を提示しました。この選択肢は、帝国主義者たちにとって“敗北”を意味しており、マーガレット・サッチャー前首相およびジョージ・ブッシュSr. 前大統領に見られる帝国主義信奉者たちにより国際的圧力をかけられ、最終的に西欧は自らの経済発展を規制することになる「マーストリヒト条約」の締結によって、経済復興の可能性を失うことになります
2000年選挙の指針は、新ブレットン・ウッズ体制を築き、それにより中国とアメリカの関係を一新させ、中国を安い日常物資や工業産品の生産国とするのではなく、長期的共同事業のパートナーとして、テクノロジー配給などによる、より安定した、確実な経済発展を現実化することに焦点が当てられました。
1996年5月、彼の妻ヘルガ・ツェップ・ラルーシュ氏は、北京で催された「ユーラシアの新たな大陸横断交通網」を主題とした34国が集う国際サミットの特別講演者として招かれるなど、ユーラシアの近代化と発展に寄与すると共に、夫リンドンと「新シルクロード」計画について世界中で講演を行うなど、アジア発展に尽力し続けています。
1997年、ラルーシュ氏は、「ユーラシア大陸横断鉄道」と題する特別番EIR の刊行を決めます。これは290ページにおよぶインフラ基盤事業の報告書で、大規模の灌漑から交通網、最先端のエネルギー生産に至るまで詳細にまとめてあり、世界人口の集中するこの地域の生活水準をいち早く向上させることを目的としています。
科学とクラシック
科学者であり思想家でもあるラルーシュ氏を理解する上で欠かせないのが、西欧の歴史を通し培われてきた人の“独立した思考能力”の概念と、それによる見えざる変化の原動力である物理原則の発見、及び文明の意識的発展を可能とする人間の“創造力”の概念です。この思考能力は人類全てに共通した特質であり、宇宙の摂理を発見する科学的思考は、西欧の、いわゆる“クラシック”と呼ばれる芸術に見られる原則を生み出すそれと同一のものなのです。優れた時代には、どの文明にもこの要素が確認され、洗練された詩、音楽、絵画等の“形”は、プラトンの語る天性の思考能力の“影”に他ならないのです。
この見解は、イマニュエル・カントの“美”の理解とは相反するもので、デカルトなどの経験主義者たちによる統計的な“客観的科学”とも異なるものです。ラルーシュ氏は、科学と古典芸術(クラシック)を先天的な“主観的科学”と理解し、バイオリンをこよなく愛した物理学者アインシュタインの理解に顕著な“境界あれども、縛られない”普遍の原則を人類の本質と位置づけているのです。
この観点から、ラルーシュ氏は核化学を推進するフュージョン・エネルギー機構の創設、また妻ヘルガと共に国際ライフ・クラブ、シラー研究所等を設立するなど、世界中で新たなルネッサンスを触発すべく活動を続けています。
国際ラルーシュ学生運動
21世紀に入り、ラルーシュ氏の国際的影響を反映しているのが、世界中に広がるラルーシュ学生運動(WLYM)です。この運動は、これまでにアメリカ合衆国だけでなく、ドイツ、フランス、スウェーデン等の西欧諸国、アルゼンチン、ペルーなどの南アメリカ諸国、メキシコ、南アフリカ、オーストラリア、フィリピンなどに普及しています。
彼は現在これらの若者を、独立した科学的思考を持った、次世代を担う指導者に成長させるため、古代ギリシャの遺産、レオナルド・ダ・ビンチ、ヨハネス・ケプラー、ゴットフリード・ライプニッツ、カール・ガウス、バーンハート・リーマン、アルバート・アインシュタイン等、人類の“無知という影”に永遠の“光”を与えた個人たちを基準とした教育方針を設け、若者たちが、如何にこれら優れた思想家たちの最初の発見を再び“自分の発見”として経験できるかを考慮したカリキュラムを構想しています。
2009年夏には、この学生運動の数人が、チェコ共和国の首都プラハ及びウクライナでの国際会議に招かれ、ヨハネス・ケプラー、ウラジミール・バナドスキー等についての講演などを行っています。
この政治運動は、ラルーシュ氏が推進する独立した共和国同士、互いの成長を促進していく“反グローバリゼーション”、すなわち反自由貿易を根本概念とするだけでなく、人類の方向性を定めていくための科学事業、それを太陽系まで推し進めるプログラムを模索しています。1988年、ラルーシュ氏は大統領選挙の一環として、「火星を歩く女性(The Woman on Mars)」と名付けられたドキュメンタリーを制作し、米国全土で放映しています。これはNASA が計画していた月面を産業化と、2027年までに火星探索を成功させるという概念を発展させたものです。今日、インド、中国を含む多くの国々が火星探索への意思を語っています。ジョン・F・ケネディー大統領が月面着陸を押し通したように、リンドン・ラルーシュ氏と彼の学生運動は、未来を建設するための礎としての宇宙探索、そして独立国家同士の共同事業としての火星探求を世界規模で現実化させるために、日々努力を続けているのです。
履歴概略
生誕:
1922年9月8日、ニューハンプシャー州ローチェスター、USA
両親:
リンドン・ハーマイル・ラルーシュSr.、米国民、国際的に知られる履物製造コンサルタント;ジェシー・ウィアー・ラルーシュ、米国民
結婚:
1977年12月、ドイツ国民であるヘルガ・ツェップ・ラルーシュ氏と結婚;ニコラス・クーザ及びフリードリッヒ・シラーの専門家;シラー研究所創始者および主任;ドイツ政界でも活躍
兵役:
米国陸軍(1944-1946);大戦中、インド、ビルマに駐在
職業:
マネージメント・コンサルタント(1947-1948)、経済学者(1952-現在);1974年、EIR (Executive Intelligence Review) 創刊;1975年、原子力科学を推奨する「フュージョン・エネルギー機構(Fusion Energy Foundation)」の共同創立者
政界:
米国民主党大統領候補(1980,1984,1988,1992,1996,2000,2004);米国労働党大統領候補(1976);米国下院議員バージニア州候補(1990)
有罪判決:
1988年12月、共謀罪で有罪;ドイツ人法学専門家であるフリードリッヒ・A・フライヘアー・フォン・デア・ハイタ教授はこの裁判について、フランスの名将であるアルフレッド・ドレイフス軍師に対する世論操作のための裁判、いわゆる「ドレイフス事件」を挙げて1989年にこう語っています:「我々が押収した全ての証拠が物語っているのは、リンドン・H・ラルーシュ氏の裁判は完全に政治目的であり、残念ながら、古今東西かかわらず起こり続けているという生々しい事実である。」;1994年2月2日、米国前司法長官ラムジー・クラーク氏は調査委員会でこう証言しています:「私の人生のなかで、いや、私の知識をたどっても、これほど広範囲に、また長期にわたり米国政府の権力が乱用され、組織的犯罪を助長した件はない・・・。」